2017年6月2日金曜日

父・浜口玄吉

憲法改正が現実味を帯びてきました。
賛否両論が賑やかですが、なぜ憲法改正が必要なのか、なぜ憲法を変えてはいけないのか、「なるほど」と思える理論や議論には残念ながらお目にかかりません。

総理=総裁たる人の「国会では話せない、読売新聞を読め」に至っては絶望的に滑稽ですが、テレビ・新聞などメディアの姿勢も、政情や政局にばかりとらわれていて「真剣に日本の未来を考えて憲法問題に取り組んでいる」とは評価できません。

憲法については私にもいろいろと愚見があります。
そもそも、「これからの日本をどのような国にしたいのか」という構想や未来図を問わずに、憲法改正を論じることが不可思議に思えます。
もうひとつ、憲法9条を普通に読めば、誰が読んでも、自衛隊は違憲でしょう。
「憲法といえども読み方や解釈は (政治的配慮で)いろいろある」という現実を見せつけられてきた私たちにとっては、憲法の重みもいまひとつ疑わしくなっているのではないでしょうか。

憲法改正についてはあらためて考えることにして……

このところ安保法制や憲法改正に絡んで自衛隊が頻繁に取り沙汰されますが、そのたびに私は海上自衛官だった父を偲ぶことが多くなりました。
父は大正3年(1914年)の生まれ、平成13年(2001年)に86歳でなくなりました。

私にとっては文句の付けようのない父で、子供の頃から「尊敬する人は?」と問われれば迷わずに「父」と答えていました。
が、ひとつだけ辛いことがありました。
それは、父が自衛官だと言う理由で白眼視されたり苛められたりしたことです。

「自衛官の息子」は大学を卒業するまで私につきまといました。
子供心には「自衛官」の意味も「父が自衛官であることがなぜ悪いのか」もよくわかっていませんでしたが、小学校の担任の先生までが「非国民」「税金泥棒」などと揶揄するのです。
中学・高校時代になると「非国民・税金泥棒」と言われる理由が分かってきました。
「60年安保」前後の頃です。
大学では学生運動の志士諸君に取り囲まれて折伏を受け、保守反動のレッテルを貼られました。
そんな少年時代・青年時代でしたが、私は海上自衛官である父を恨めしく思ったことは一度もありませんでした。

家庭では至極穏やかな父で、戦争の体験談や海上自衛隊での仕事の話などはほとんど口にしませんでしたが、旧海軍軍人から海上自衛官という自らの人生の選択をどのように納得していたのか、もっと父の話を聞いておけばよかった、父と語り合っておけばよかったと悔やまれます。
父が言ったことをひとつだけ明確に覚えています。

「おまえたちの世代には戦争を経験させたくない」

今頃になって父が恋しくなって、父のことを知りたくなって、弟・彰夫と二人で集めた父の記録を整理しました。

浜口玄吉の生涯


<生誕~海軍機関学校入校>

浜口玄吉(はまぐち げんきち)
生誕:1914年(大正3年)12月17日
死去:2001年(平成13年)8月24日

旧海軍軍人(海軍少佐)、元海上自衛官・海将舞鶴地方総監。
海軍機関学校卒業、太平洋戦争を経て戦後海上自衛隊創設に参加。
生涯を通して戦争の悲惨さを訴え、平和を願い国を守ることを自らの信念として貫いた。

母の実家のある現在の和歌山県新宮市で誕生したが、中学卒業までは本籍地である和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で過ごした。浜口家は、代々三重県・二木島町で廻船問屋を営んでいたが、父の時代に帆船から機船への変化による免許取得や登録業務の多様化に着目し、漁業で賑わう勝浦港に移住、海事代理士資格を取得し、開業した。尋常小学校から新宮中学へと進学したが、自宅は、地続きながら道路事情の極端に悪い海岸地域で、中心部へ徒歩で行くことは殆ど不可能な陸の孤島。通学の交通手段は伝馬船を漕いで対岸まで行くしかなく、幼少からのこの日々の体験が、後の機関学校や海軍での過酷な訓練・実戦に耐える体力を作ったと、晩年述懐している。

1932年(昭和7年)新宮中学を卒業し海軍兵学校を受験するも失敗。一念発起し勉強に専念、翌8年、海軍機関学校に合格、入学する。何故海軍を選び、何故機関学校に変わったのか定かではないが、海を友に遊び育ち海を愛したからか、国を守る信念・気概が人一倍強かったからか、長男として、大家族でけして裕福でない家庭を思い官費での教育を望んだのか、以後38年に亘る海軍軍人の道へ第一歩を踏み出した。

・新宮中学時代は、甲子園を目指し野球に没頭するも夢は果たせず。捕手だったが練習中にボールが股間を直撃し悶絶、気がつくと妙齢の看護婦がマッサージをしてくれており、何とも気恥かしかったと述べている。
・浪人時代は、新宮市の神倉神社(熊野三山の元宮)の社務所に間借りし、生活は質素倹約を旨としたが、後に義父母となる熊野速玉大社宮司・上野殖、美代子(母の妹)夫妻が、たくあんと豆腐だけの食事を気遣い、折に触れ、娘・俊(後に妻となる)に食事を届けさせた。

<海軍機関学校時代>

1933年(昭和8年)4月、海軍機関学校(京都府舞鶴市、現在は、海上自衛隊舞鶴地方総監部、第四術科学校などになっている)に、第45期生として入校する。機関学校は、機関、電機、工作、整備方面を担当する海軍兵科将校となるべき生徒を養成することを目的とし、教育内容は、訓育(心身鍛錬、精神修養主体)と学術教育(一般教養と専門知識)に大別される。

教科内容の一部を見てみると
【訓育】
・精神教育
・教練(陸戦、短艇等)
・野外陸戦演習 等
・体育(武道、ラグビー、スキー、馬術等)
【学術教育】
・哲学、歴史、漢文、英語、代数、三角法、幾何、物理 等
・流体力学、航空理論、機械力学、電磁気学、通信工学、工用化学 等
・軍制、法制、経済、衛生、軍隊教育学、兵術、砲術、航海術、水雷術 等
・航空術、蒸気主機械、内火機関、補助機械、機械一般 等
・運用術、艦内防御、工作、電力機関、造船学 等
・実習(艦艇、航空、自動車、滑走機 等)
である。

学生は、幾つかに編成された分隊が日常生活の基準で、世話役として少佐又は大尉の分隊監事がおり、隊員はその指導の下で授業と訓練に勤しみ励んだ。

・第一次大戦の頃は日本艦艇の機関の技術水準は低く、作戦行動にも支障を来たしたが、その後の機関技術の進歩により、太平洋戦争では敗戦はしたがタービンやボイラー等の機関の故障等による作戦への重大な支障はなく、機関学校の教育水準の高さの証と生徒やOBたちの誇りとなった。浜口も「機関学校教育こそ最高の教育」と語っている。
・日曜日や公休日にも訓練や実習(一部有志)があり、まさに「月月火水木金金」の厳しさだったが、休日午後は夕食までの間外出が許可され、生徒倶楽部(東舞鶴市内に指定された民家)に行ったり、市内散策をして浩然の気を養った。
・短艇(カッター)訓練では、臀部の皮膚が破れ出血し、浴場の湯が赤く染まった。
・闘球(ラグビー)が体育教科の一つで、当時最強と言われた京都帝大を破ったことを自慢としていたが、右手薬指を負傷し終生曲がったままだった。
・45期の同期には、松平春嶽の孫で後に陸上自衛隊を経て靖国神社宮司となり、所謂「戦犯合祀」を実施した松平永芳がいて、戦後も時折懇談した。

<卒業~太平洋戦争・終戦>

1937年(昭和12年)3月、海軍機関学校を卒業し、海軍機関少尉候補生として任官し、近海航海を経てヨーロッパへの遠洋航海に出る。

(以降 終戦までの経歴)

1937年(昭和12年)
  • 3月 「磐手」(練習艦隊)乗組  近海航海後ヨーロッパに遠洋航海
  • 10月 「名取」乗組
1938年(昭和13年)
  • 2月 海軍機関少尉
  • 6月 「那珂」乗組
  • 12月 「叢雲」(第一艦隊)乗組
1939年(昭和14年)
  • 6月 海軍機関中尉
  • 11月 「古鷹」(第六戦隊)乗組・分隊長 1941年(昭和16年)
  • 5月 海軍機関大尉
  • 8月 「村雨」(第二艦隊)乗組・機関長兼分隊長
  • 12月 開戦  南方部隊(フィリピン、ボルネオ、スラバヤ各方面作戦)
1942年(昭和17年)
  • 6月 ミッドウエー作戦、ベンガル湾作戦
  • 11月 海軍大尉(後述)
  • 12月 ガダルカナル輸送作戦
1943年(昭和18年)
  • 1月 海軍工機学校高等科学生、従妹・上野俊(熊野速玉大社宮司・上野殖、美代子の長女)と結婚
  • 5月 第二十四特別根拠地隊(アンボン)参謀
  • 12月 海軍機関学校教官兼監事
1944年(昭和19年)
  • 9月 長男・哲夫誕生
  • 10月 海軍少佐。海軍機関学校が海軍兵学校と統合、舞鶴分校となる
19454年(昭和20年)
  • 4月 第三特攻戦隊参謀(九州大村湾・川棚)(後述)
  • 8月 終戦
・多くの艦に乗り多くの作戦に参加したが、転属命令で艦を降りるとその艦が沈没することが度々起こり、つくづく「運」というものを考えたという。
・通常、機関室で指揮を執っていたが、交戦時は、射撃要員に駆り出され銃座につくこともあった。ある時、隣にいる筈の戦友が見えなくなり辺りを見ると、直撃弾で上半身のない悲惨な姿になっていて、強烈な恐怖を感じたという。
・妻となった上野俊は母方の従妹で七つ違い。幼い頃からよく行き来した仲だが、血族結婚ということで親族や周囲に反対の声もかなりあった。何故結ばれたか真相は闇の中だが、後年、「お姫様育ちのじゃじゃ馬娘に貰い手などないから」「貧乏な八人兄妹の長男に嫁など来ないから」と、お互いにボランティア精神を強調した。
・機関学校教官時代は、工作教官及び三五三、三五四分隊監事。指導を受けた当時の生徒達の印象は、温厚で口数少なく、スマートで慈父型。縁の下の力持ちという役割であった機関将校の典型だったとのこと。
・酒を飲めず、配給の酒を街で砂糖や小豆と交換し、妻が汁粉を作り手料理と共に生徒達に振舞い、好評を博した。
・特攻隊参謀時代は、任務につく兵を見送りながら、胸痛く涙したという。
・戦時中、父・徳兵衛を空襲で、弟・侑三(陸軍幼年学校~陸軍士官学校~陸軍航空隊)を訓練中の事故で失う。
・終戦の日、敗戦という現実に直面し、軍人として自決すべきか否か、短刀を手にして沈思黙考。散って行った同胞、戦友、そして妻子のためにも、生きて日本の平和と再建に努力しようと心に決め、短刀を置いたという。

*海軍機関科問題(wikipedia参照)
19世紀前半の蒸気推進軍艦の導入以降、兵科士官(戦闘要員)と機関科士官(機関要員)とに制度上の区別があり、指揮権、階級制度、昇進、給与、教育等に異なった取り扱いがされ、兵科士官が一段上とされた。これが機関科士官の不満となり両士官の対立が続く。度々制度の一系化が検討されたが抜本的な改正に至らず、昭和17年に官階制度上の区別が撤廃され、海軍機関大尉⇒海軍大尉となるが、指揮権の改正等には至らず、実態は終戦まで変わることはなかった。
*第三特攻戦隊(wikipedia参照)
特攻戦隊とは、所謂「神風特別攻撃隊」などの航空機によるものではなく、小型のベニヤ板製のモーターボートに爆弾を積み、搭乗員(1~2名)が乗り込んで操縦し、敵艦船に体当たり攻撃をする海上特攻隊である。戦争末期の戦況悪化に伴いかなりのボートが建造され、訓練は主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2か所で行われ、訓練後は南洋方面や沖縄、本土太平洋側の基地に配属された。

<戦後~海上自衛隊>

1945年8月15日終戦となり旧海軍も解体される。同年10月旧佐世保鎮守府に出仕。12月に佐世保地方復員局艦船運航部勤務を命ぜられて以降、旧日本兵の復員関連業務、船舶の安全運航確保のための日本周辺の機雷掃海、更に海上警備隊から1954年(昭和29年)の海上自衛隊へと軍人生活は続く。

【復員局~海上警備隊】
1945年(昭和20年
  • 12月 佐世保地方復員局艦船運航部
1946年(昭和21年)
  • 2月 大阪地方復員局
  • 6月 同上(兼)田辺陸地連絡所
1947年(昭和22年)
  • 6月 二男・彰夫誕生
1948年(昭和23年)
  • 5月 運輸事務官となり、神戸海上保安本部兼大阪海上保安部
1949年(昭和24年)
  • 12月 神戸海上保安本部掃海補給部
1950年(昭和25年)
  • 6月 海上保安庁第五管区神戸海上保安本部航路啓開部
1951年(昭和26年)
  • 10月 海上保安官二等海上保安正
1952年(昭和27年)
  • 4月 海上警備隊発足(海上保安庁内に設置)
  • 5月 海上警備官となり横須賀地方総監部勤務
  • 10月 舞鶴地方総監部勤務となり、練習隊所属
1953年(昭和28年)
  • 3月 横須賀地方総監部勤務
  • 4月 第一船隊群司令部勤務
1954年(昭和29年)
  • 3月 第十二船隊所属となり、警備艇「すみれ」船長となる

・戦後の混乱期であり、所属や業務内容、勤務地がかなり変わっているが、復員局時代は、主として特別輸送船(復員船)の運航、補給、修理等の業務、海上保安本部時代は、主として戦時中日本周辺海域に敷設された機雷(日本海軍約55,000個、米海軍約11,000個)の掃海、補給業務、海上警備隊時代は、後の海上自衛隊創設を睨んだ各種業務、等に取り組む。
・妻・俊は、終戦近くに実家の和歌山県新宮市に長男を連れ疎開していたが、神戸、大阪勤務に伴い大阪府茨木市で家族揃っての生活がスタート。
・1951年(昭和26年)、長男・哲夫が茨木小学校に入学するが、1955年(昭和 30年)に東京都武蔵野市に居を構えるまでの4年間に7回の引越し、転校という悲惨な目に遭う。妻は、途中から次の引越しに備えて荷物を捌かず、梱包したままにしておいた。

【海上自衛隊】
海上警備隊時代から先輩や戦友達と準備作業に鋭意取り組んできたが、海上自衛隊創設に臨み、改めて「平和を願い国を守る」という自らの信念を、強く心に刻む。

1954年(昭和29年)
  • 7月 自衛隊法施行により海上自衛隊創設。二等海佐となり「すみれ」艇長(兼)「ふよう」艇長となる。
  • 9月 第三護衛隊所属となり、護衛艦「しい」艦長(排水量1450㌧、米国貸与)。兵学校出身士官の定席だった「艦長」を、海軍史上初めて機関学校出身士官が務める。
1955年(昭和30年)
  • 3月 海上幕僚監部防衛部訓練課勤務。東京都武蔵野市に自宅を新築
1956年(昭和31年)
  • 2月 海上自衛隊幹部学校入校
1957年(昭和32年)
  • 1月 海上自衛隊幹部学校を卒業、海上幕僚監部防衛部防衛課勤務。
1958年(昭和33年)
  • 2月 一等海佐に昇任
  • 9月 防衛研修所へ入所
1959年(昭和34年)
  • 7月 防衛研修所での研修を終え海上幕僚監部に復帰、統合幕僚会議事務局第四幕僚室勤務。
1961年(昭和36年)
  • 12月 海上幕僚監部経理補給部経理課長
1964年(昭和39年)
  • 1月 海上自衛隊第二術科学校副校長兼総務部長
1965年(昭和40年)
  • 1月 海上幕僚監部経理補給部副部長
  • 7月 海将補に昇任
1966年(昭和41年)
  • 1月 海上幕僚監部経理補給部長
  • 10月 米国へ短期研修(米国海軍の経理補給制度、施設及び管理に関する研修)
1968年(昭和43年)
  • 1月 海上自衛隊第二術科学校長
1969年(昭和44年)
  • 1月 海将に昇任
1970年(昭和45年)
  • 7月 舞鶴地方総監
1971 年(昭和46年)
  • 7月 定年を待たず勇退、退官。
海軍機関学校生徒として青春を燃やし、兵学校教官として多くの若者と交わり、自衛隊創設時の苦労など思い出深い舞鶴の地で、38年に亘る海軍軍人生活に終止符を打つ。

・海上警備隊時代から米海軍から艦艇の供与、貸与を受け、教育、訓練なども米海軍の指導のもとに行われた。多くの旧海軍軍人が入隊したが、その優秀さ、技術力の高さに米海軍は驚き、敬意を表した。
・国民の間には、「実質的な再軍備」との抵抗感が根強くあり、自衛隊は理解されず隊員や家族達も長期に亘り白眼視された。
・子供達二人も、教師や級友から「お前の親父は税金泥棒、非国民」といった悪口雑言を浴びせられた。
・米国訪問では、その国土の広さ、物資の豊富さ、軍事力の強大さ等々を初めて目のあたりにし、「よくこんな国と戦争をしたものだ」と述懐した。
・舞鶴地方総監就任に際し、京都府知事(当時・蜷川虎三)に挨拶すべくアポをとって訪問したにも関わらず、玄関払いされるという侮辱・屈辱を味わった。
・1955年(昭和30年)の自宅新築以降は、自宅からの通勤が基本だったが、第二術科学校長と舞鶴地方総監時代は単身赴任となり、一人で官舎暮らしをした。
・退官の日、妻・俊は一人官舎にいて夫を送る退官式のラッパを聞きながら、共に過してきた戦中、戦後の日々に思いを巡らせ、「ご苦労さまでした」と手を合わせ、涙した。

<退官後>
・退官を知った先輩や友人、また多くの企業から新たな仕事への誘いがあったが、「在職している先輩達を追い出すことになる」として断り、兵学校教官時代の知己の助力を得て厚木の民間企業に就職。運転免許を取得し、武蔵野の自宅から厚木まで自動車通勤を約10年続ける。
・退官後は、水交会や隊友会の行事・事業等に積極的に参加し、地元(武蔵野市)選出の都会議員の要請に応じて「戦争の悲惨さ、平和を守り、国を守ることの意義、重要性」を度々講演、訴える。また、テレビの国防に関わる番組や政治討論を視ては「なっちょらん!」と息巻く。
・民間企業退職後は、妻との故郷・熊野への帰郷や旅行、散歩や犬の世話、買い物等家事全般の手伝い、健康維持のための卓球などをしながら、孫二人の成長を見守った。
・五十の手習いで始めたゴルフは、息子二人とプレイすることを何よりも楽しみで、TV局勤務の長男が主催するゴルフコンペの会長となり、多くの芸能人やスポーツ選手等との交流を楽しんだ。
・1985年(昭和60年)、永年の功績により、勲三等瑞宝章を授与される。
・1993年(平成5年)、家族、親族、友人、知人、多くの人に祝福され、金婚式の祝宴が開かれた。
・2001年(平成13年)初夏に体調不良を訴え、6月下旬東海大学東京病院(東京・代々木)にて検査。更に精密検査のため東海大学病院(神奈川・伊勢原)に入院。小脳に腫瘍が見つかり、肺を原発点とする癌で転移がかなり進行していると診断された。家族の判断で本人には病状を告げなかった。本人の強い要望で7月下旬に自衛隊中央病院(東京・世田谷)に転院。8月5日、海軍機関学校のクラスメート夫婦二組が見舞いに来院、3時間近く昔話に花を咲かせ、本人も気分よく多弁に過ごした。翌日より意識の混濁が始まり、8月24日朝、86歳8カ月の生涯を終えた。
・没後、正四位に叙せられる。千日谷会堂で行われた通夜祭・葬場祭には、防衛庁(当時)関係者や海上自衛隊員、友人知人、息子達の会社関係者等数多くの人々が参列し、長男が作曲させた葬送ラッパに送られて天上へと旅立った。
・第二術科学校校長時代に、「海軍機関学校、海軍兵学校舞鶴分校・生活とその精神」が浜口を含む有志により刊行され、機関学校の歴史を記録する貴重な資料となっている。また、平成13年12月に「第三五三分隊三号生徒」が、岸尚氏(海軍兵学校第七六期)の尽力により刊行された。分隊監事としてインタビューを受け、本の完成を心待ちにしていたが、その思いは届かなかった。

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